IPMフォーラム
「臭化メチル全廃から10年:文化財のIPMの現在」
報 告 書
2015年12月
独立行政法人国立文化財機構東 京 文 化 財 研 究 所
本報告書は、2015 年 7 月 16 日に開催したフォーラム「臭化メチル全廃から 10 年:文化 財の IPM の現在」の各講師の講演内容を基に取りまとめたものである。 オゾン層の保護等地球環境保護対策の一環として国際的な連携が進むなかで、1992 年 11 月に開催されたモントリオール議定国会合で、我が国で文化財の虫害防止のために長らく燻 蒸用の化学薬品として使用してきた臭化メチルが廃止リストに追加され、2004 年 12 月末を 以って全面的に使用禁止となった。 このため、新たな害虫処理法の開発が求められた。当研究所では、農業分野で進められてい た生物防除法の研究を参考に関係機関の協力を得て、最終的に化学薬剤のみに頼らない生物 被害対策である総合的有害生物管理(IPM)システムの確立を目指すこととした。現場で容 易に処理可能なノンケミカルな方法として低酸素濃度法や二酸化炭素処置法、低温処理法な どの防除法等様々な研究を推し進め、現在これらの方法は文化財の分野でもかなり普及する に至っている。 この研究成果は、2001 年の『文化財虫害事典』編纂や文化庁の『文化財の生物被害防止に 関する日常管理の手引き』に生かされている。一方、当研究所で行っている保存担当学芸員 研修では、2000 年から害虫被害とその防除法に関する講義枠を拡大し IPM の考え方やその 実践についての基礎知識について学習し普及に努めている。 日本では、古来より土蔵での収納保管、「目通し、風通し」による宝物類の定期的な点検 といった方法で物件の管理を行ってきたのであるが、こうした日常の管理や定期的な点検は IPM の考え方と共通する点も多いといえる。 2015 年の全廃から 10 年を経た今日、IPM の考え方は確実に広がりを見せている。特に開 館時から IPM の考え方を取り入れた九州国立博物館では、ボランティアを含め徹底した清掃 作業(予防)を軸とした管理活動で大きな成果を挙げている。また、(公財)文化財虫菌害研 究所では、2011 年に「文化財 IPM コーディネーター」の資格認定制度を創設し、九州国立 博物館の協力を得て多くの有資格者を養成するなど確実に成果を挙げている。 本フォーラムは、こうした文化財等の分野で IPM 普及活動やその実践を行ってきた多くの 機関におけるこの 10 年の歩みと現状の課題等についての報告から、IPM の今後の研究課題等 について情報共有していくことを目的としたもので、報告書の刊行は当初予定していなかっ た。しかし、本フォーラムが参加者約 200 名という予想以上の多数の参加を得て成功裏に終 了した後、報告内容をまとめて欲しいという強い要望が出されたこともあって急遽企画され たものである。幸い各講師から理解と協力が得られ、当日配布した資料を基本とした講演内 容を印刷物として刊行することができた。関係者各位にこの場を借りて篤く御礼を申し上げ る。 本書が、我が国における IPM 手法に基づく文化財保存についてより確実な方法として確立 していくための一里塚となることを期待している。 平成 27 年 12 月 東京文化財研究所長
亀 井 伸 雄
巻 頭 言
プログラム・目次
10:00 -開会挨拶
10:10 - 10:20モントリオール議定書締約国会議・臭化メチル使用全廃から 10 年によせて
文化庁文化財部 文化財鑑査官 齊藤 孝正 2 11:20 - 10:45世界の状況と現在の処置法の選択肢について
東京文化財研究所 木川 りか 5 10:45 - 11:10文化財 IPM コーディネータについて
公益財団法人文化財虫菌害研究所 理事長 三浦 定俊 21 11:10 - 11:35建築段階からの IPM、九州国立博物館の歩み
九州国立博物館 本田 光子 27 11:35 - 12:00IPM 業務仕様書の事例
愛知県美術館 長屋 菜津子 32 12:30 - 13:30 昼食休憩 13:30 - 13:55博物館環境データ(生物生息調査、温度・湿度モニタリング)
分析システム・スモールパッケージの開発
国立民族学博物館 園田 直子 38 13:55 - 14:20IPM 実現のための予算獲得について-国立民族学博物館の事例から-
国立民族学博物館 日髙 真吾 48 14:20 - 14:40タバコシバンムシとの戦い-千葉県立中央博物館の例-
千葉県立中央博物館 斉藤 明子 55 14:40 - 15:00アーカイブズの保存計画における IPM
国文学研究資料館 青木 睦 60 15:00 - 15:20 休 憩 15:20 - 15:40社寺収蔵庫における IPM
総本山仁和寺 朝川 美幸 67 15:40 - 16:00博物館施設におけるカビ等のモニタリングとデータの活用
三重県総合博物館 間渕 創 72 16:00 - 16:20古墳公開保存施設における IPM の取り組み
東京文化財研究所 佐藤 嘉則 78 16:20 - 17:15 質疑・意見交換- 開催報告 -
85モントリオール議定書締約国会議・臭化メチル使用全廃から10年によせて 2015年1月に臭化メチルが全廃されたが、ここ ではその全廃に向けての文化庁の取り組みを簡単に振 り返ってみたい。 まず1998年4月24日付文化庁次長通達「特定 物質の規制等によるオゾン層の保護に関する法律第 20条第1項の規程に基づく特定物質の排出抑制・使 用合理化指針の一部改正について(通知)」を各国立 博物館長・国立美術館長・国立文化財研究所長・都道 府県教育委員会宛に発出した。ここでは現状を説明す るとともに、以下の三点を要望した。 1. 貴機関におかれては、それぞれ保管している美術 工芸品、建造物等の文化財の燻蒸時の特定物質の 使用に当たって、新たに指針の具体的対策に盛り 込まれた事項にも留意しつつ、従来どおり指針に 基づき、適正な使用量を守り、漏洩を防ぎ、燻蒸 終了時の廃棄に当たっては残留ガス吸着装置を使 用するなど特定物質の排出の抑制及び使用の合理 化に努めること。 2. 東京国立文化財研究所におかれては、代替物質の 導入等のための研究開発に努めるとともに、博物 館等の文化財保管施設に対し、特定物質の排出の 抑制及び合理化に配慮した文化財の燻蒸のための 技術的な指導・助言に努めること。 3. 都道府県教育委員会におかれては、管下の博物館 及び市区町村教育委員会に対し本通知内容を周知 徹底すること。 引き続き、2000年2月からは臭化メチルの代替 法の確立と普及を図るため「文化財の生物による劣化 と防除に関する調査研究」を専門家の協力を得て実施 し、地球環境や人体への影響を考慮して、薬剤に頼ら ない日常管理の徹底による虫害防止の必要性を確認し たが、この日常管理の方法として、予防のための管理 策と被害発生時の応急対応策を一体化した総合的有害 生物管理(IPM)を推奨し、そのための手引きとして 「文化財の生物被害防止に関する日常管理の手引き」 (2001年3月文化庁文化財部)を刊行した。 この手引きにおいては、「第1章 基本的な考え方」 において「これからの生物被害対策においては、IPM を根幹とした計画的かつ積極的な保存方法への転換を 図り、(中略)燻蒸施設を有している施設では、代替 法に対応可能な設備に転換するとともに、従来の燻蒸 予算を生物被害予防のための予算として充実させ、弾 力的に運用していくことが必要である。」とし、「第4 章 各環境の特記事項」においては「1博物館、美術 館の特記事項 2文書館、図書館の特記事項 3木造 建造物の特記事項」を記載し、それぞれの考え方と対 応策を説明した。 一方、文化庁では従来国指定文化財を公開すること ができる施設について「文化財公開施設の設計に関す る指針」(1995年8月文化庁文化財保護部)を公 表し考え方を示してきたが、そこでは「第2 文化 財公開施設計画の留意点 3.主要な施設等の設計 (6)燻蒸施設」として、その必要性を指摘してきた ところであった。しかしながら、「文化財の生物被害 防止に関する日常管理の手引き」刊行後は、燻蒸ガス や燻蒸室(燻蒸庫)に対する考え方に再考をうながし、 虫・カビ対策に関しては燻蒸ガスによる一括処理では なく、総合的有害生物管理(IPM)への転換を指導す ることとした。 今日の日本各地でのこの IPM による取り組みの状 況を見てみると10年前とは隔世の感がある。今後も ますます各地で積極的な取り組みが進められることを 期待している。 引用・参考文献 『文化財公開施設の計画に関する指針』平成7年8月 文化庁文化財保護 部 『文化財の生物被害防止に関する日常管理の手引』平成13年3月 文化 庁文化財部
モントリオール議定書締約国会議・臭化メチル使用全廃から10年によせて
齊藤 孝正
文化庁文化財部 文化財鑑査官
モントリオール議定書締約国会議・臭化メチル使用全廃から10年によせて 第1 文化財公開施設計画の基本的な考え方 第2 文化財公開施設計画の留意事項 1.文化財公開施設の立地環境 2.文化財公開施設の設計と施工 (1)建物設計 (2)設備設計 (3)各部屋の配置設計 (4)通路設計 (5)施工等 3.主要な施設等の設計 (1)搬出入口 (2)トラックヤードと荷解場 (3)エレベーター (4)収蔵庫 (5)調査・整理・修理室・写場等 (6)燻蒸施設 (7)展示室・展示ケース 4.他の施設と併設する文化財公開施設の設計 文化財公開施設の計画に関する指針 平成7年8月 文化庁文化財保護部 (6) 燻蒸施設 ア.搬出入口の近くで,建物内の他の施設から独立した専用の 施設として設置するのが望ましい。 イ.原則として建物の外壁に接して設置するとともに,前室を設 ける。 ウ.燻蒸室及び前室には,それぞれ排気設備を設置する。 エ.燻蒸室内には,減圧燻蒸釜や燻蒸庫を設置することも有効 である。 オ.扉,壁などは,気密性に留意して設計する。また,攪拌装置 等を設置する場合は,電 気系統を防爆型とする。 カ.燻蒸後の排ガス処理装置を設置するとともに,配管は極力 短くなるように考慮する。 キ.建物の空調・電気等の配管が燻蒸室を通らないように考慮 する。 文化財の生物被害防止に関する日常管理の手引 平成13年(2001)3月 文化庁文化財部 はじめに 第1章 基本的な考え方 第2章 有害生物について 1 文化財を加害する昆虫(文化財害虫) 2 カビ、腐朽菌類 3 その他 第3章 総合的有害生物管理 1 日常の予防システムの確立 2 発見時の対処 3 定期的な予防システムの見直し 第4章 各環境の特記事項 1 博物館、美術館の特記事項 2 文書館、図書館の特記事項 3 木造建造物の特記事項 第2 文化財公開施設計画の留意事項 3.主要な施設等の設計 文化財公開施設の計画に当たっては,文化財の保存に対 する配慮が不可欠であり,収蔵庫はもとより,保存の場とし ての機能を有する展示室についても,文化財保護の観点 から,収蔵展示(観覧者や展示効果に対しても配慮しつつ, 収蔵しながら展示する。)の考え方にのっとり収蔵庫と同一 の保存環境を実現する必要がある。また,燻蒸施設や調査・ 整理・修理室等の作業スペース,搬出入口,荷解場,エレ ベーターなどの付帯施設等についても,文化財の保存環境 の維持,安全の確保を図る必要がある。このため,以下の点 に留意すること。 2005年・臭化メチル全廃を受けて 薫蒸ガス・薫蒸室(燻蒸庫)の再考を ↓ 虫・カビ対策はIPM[総合的有害生物管理]で *薫蒸ガスによる一括処理は推奨しない [定例的(毎年1・2回)な常設展示室・収蔵庫等の一括燻蒸ガスによる処理] [生物被害が無くても慣例的に処理(不必要な処理の定例化)] *被害をうけた文化財のみを個別に処理する (被害を受けた文化財の材質や有害生物の種類により最も適した処理方法を) *場合によっては代替ガスによる燻蒸も必要に [ただし、作品を隔離して処理する作業室は必要となる] ↓ 博物館・美術館等においては、燻蒸費が定額として毎年の予算に組み込まれ ていれば、同額を委託業者によるコンサルタント契約等(モニタリングなど)へ 切り替えることが可能であれば、理想的である[木川さんの資料を参照] 日常管理の相談→ 博物館・美術館 委託業者(モニタリングへの協力) ←生物対策情報の提供 文化財の生物被害防止に関する日常管理の手引 こうした状況を受けて、文化庁では、 臭化メチルの代替法の確立と普及を 図るため、平成12年2月から「文化 財の生物による劣化防除に関する 調査研究」を専門家の協力を得て実 施した。その結果、地球環境や人体 への影響を考慮して、薬剤に頼らな い日常管理の徹底による虫害防止 の必要性を確認した。 本手引きは、この日常管理の方法 として、予防のための管理策と被害 発生時の緊急対応策を一体化した 総合的有害生物管理(IPM)について 纏めたものである。
モントリオール議定書締約国会議・臭化メチル使用全廃から10年によせて 文化財の生物被害防止に関する日常管理の手引 これからは文化財分野でも、薬 剤を用いた駆除だけに頼るので はなく、害虫の侵入を防ぐ防虫網 の導入や、実態を把握するため のトラップ(わな)の使用のほか、 害虫の生態を利用した防除方法 などを併用して予防策を講じると ともに、殺虫・殺菌処理でもできる 限り薬剤を使用しないよう、文化 財の材質や種類によって様々な 方法を使い分けていかなければ ならない時期にきている。 第1章 基本的な考え方 (略) これからの生物被害対策においては、IPMを根幹と した計画的かつ積極的な保存方法への転換を図り、 (略) 燻蒸施設を所有している施設では、代替法に対応可 能な設備に転換するとともに、従来の燻蒸予算を生物 被害予防のための予算として充実させ、弾力的に運 用していくことが必要である。 文化財の生物被害防止に関する日常管理の手引庁文化財部 第4章 各環境の特記事項 1 博物館、美術館の特記事項 (1)企画展示室 企画展示場室荷解き場などはさまざまな環境から文化財が集まり、生物被害の伝 播を受けやすい環境である。このため監視員を含めて全員が常に注意を払う必要が ある。借り入れた文化財は、借入時、返却時の点検とともに、借用期間中の継続した 観察が必要である。展示室内で文化財の内部に生息する虫が発見された場合は、 同一の空間に展示されていた文化財の所有者にその旨を伝え、記録の受け渡しとと もに対応を協議することも必要である。 (2)展示用造作物 造作物(仮設壁、仮設ケース、展示台など)の資材は、木材害虫を内包している場 合がある。また仕上げ工程での水分の供給や乾燥不足から、カビの発生を助長する こともある。資材をよく吟味すると同時に、十分に点検できるよう日程に余裕をもって 作成する必要がある。 (3)梱包材 梱包材など移動用の資材の生物被害・汚損などについても留意しなければならな い。移動後すぐに、梱包材料を館蔵品と同じ場所に収納することは避ける。
世界の状況と現在の処置法の選択肢について 1.燻蒸剤、臭化メチルの 2005 年使用全廃 私が文化財研究所に入りましたのは、1993 年のこ とですが、当時は文化財分野では当たり前に臭化メチ ル、酸化エチレンの混合ガスが文化財の殺虫・殺菌用 途で使用されておりました。さきほど、齊藤文化財鑑 査官からお話しいただきましたが、その燻蒸剤の主成 分である臭化メチルが、オゾン層の保護のために使用 できなくなるという話は、当時大変なことであり、今 後どうすればいいのか、ということではさまざまな不 安や議論がございました。 当時の(財)文化財虫害研究所からは、文化庁長官 宛に、「燻蒸剤 “ 臭化メチル ” の不可欠使用に関する 要望書」が提出されておりました。というのも、農業 分野の土壌燻蒸や、検疫などをあわせて国内で使用さ れていた臭化メチルの使用量のうちで、文化財分野で 使用されていたのは、約 1%であり、その量でかけが えのない文化財を後世に残していけるのであれば、使 用を認めてもらえないか、という考え方があったから です(図1)。 このことを受け、当時の文化庁の三輪文化財鑑査官 (前九州国立博物館館長)より、当時東京文化財研究 所の三浦保存科学部長(現(公財)文化財虫菌害研究 所理事長)に今後の方針を考える上での対策について ご連絡があり、当時、文化庁の早川氏と研究所の三浦 部長が 1997 年にモントリオール議定書締約国会議に 文化庁からの出席者として参加されました(図2)。 また、当時、国連の専門委員会から出されていた、 農業分野、建造物分野などの臭化メチル燻蒸代替法に 関する各種のレポートなどもあり ( 図3)、私たちは それらについても調査をしながら、文化財分野につい て、本当に臭化メチル燻蒸以外の方策はないのか、と いうことを検討していきました。その結果、わかって きたのが、日本以外の国では、どこからも「文化財分 野」で臭化メチルの不可欠用途(CMBU:critical methyl bromide use)を申請しようとする国はない、 ということです。また、もしこのCMBUに認定され ても、年次ごとの削減数値目標を作成し、毎年国連で その成果を報告し、数年のうちには、代替法に切り替 えなければならないというきわめて厳しいものである ということもわかりました。また、このときに全国の 博物館、美術館等に代替法に関するアンケートが実施 されて、意向調査をした結果、酸化エチレンなどの文 化財用燻蒸ガスも代替品としていざというときの使用 は可能ということもあって、CMBUを政府から申請 するということはなくなりました。 その中で、国際的な代替法のレポートの中で、文化 財分野において、臭化メチル燻蒸代替法のひとつとし て挙げられていたのが、IPMです。このときから、 このIPMというものは、どういうものか、またこれ が当時の目の前の問題として、本当に臭化メチル製剤 (エキボン)の代替策となりうるのか、ということが、 大きな懸案事項でした。 この後、文化庁から「文化財の生物被害防止に関す る日常管理の手引き」(図4)が平成 13 年(2001 年) に発行されることになりますが、このワーキンググル ープや委員会のなかで、IPMのありかたが議論され ることとなりました。 2.わが国の虫菌害防除法の歴史 そもそもの話になりますが、ではこの臭化メチル燻 蒸が行われる前は、わが国ではどうしていたのでしょ うか ( 図5)。古来から戦前、戦後まではもともと虫 干し(曝涼)という年中行事により、虫払い、カビ払 い、それとあわせてお宝の一般公開というものが行わ れることもあったようですが、このような行事、目通 し、風通しによって、わが国では千年以上も貴重な、 しかも虫に食われやすいような文化財も今日まで伝え てきたという歴史があります。その後、1960 年代こ ろから、農業分野での農薬の使用とあいまって、ガス 燻蒸という方法が登場し、とくに臭化メチルと酸化エ チレンの混合ガス(エキボン)で燻蒸すれば、一度に 虫もカビも処置できるということで、非常に普及しま した。この燻蒸剤の主成分が、2004 年末には先進国 では使用全廃ということになったので、大変なことに
世界の状況と現在の処置法の選択肢について
木川 りか
東京文化財研究所
世界の状況と現在の処置法の選択肢について なり、なにか代替ガスを至急開発しないと無理ではな いか、ということになったわけです。 しかし、一方で他国に目を向けてみますと、イギリ スや北米などは、すでに 1995 年ごろには臭化メチル や酸化エチレンによる文化財燻蒸は止めており、フラ ンスでは酸化エチレンはまだ使用していましたが、臭 化メチルがないと困るという議論はありませんでし た。また、日本はモンスーン気候で、そもそも欧米と は比較にならないような重篤な虫、カビの被害がある のだ、同じような悠長な対応では間にあわない、とい う話ももっともなことでしたが、一方で日本よりも虫、 カビの被害が顕著なはずの東南アジアでは逆にこのよ うな燻蒸剤はほとんど使用されていませんでした。と いうのも、日本の燻蒸業者さんのようにこのような毒 性の高いガスを安全に取り扱えるところがあまりない 状況であったということでした。それでも、ある現場 で臭化メチルを使ってみたところ、人身事故がおきて しまい、使用をやめた、という話も聞きました。日本 以外に当時臭化メチル製剤を使用していたのは、韓国 でしたが、韓国の使用量は当時日本の十分の一程度で、 しかも日本からエキボンを輸入して使用している状態 でした。このことを考えると、日本が世界の中でもも っとも文化財燻蒸大国、といえるような状況であった ことがわかってきました(図6)。 3.文化財分野でのIPM これは、スミソニアン博物館でこの 200 年間に、 自然史関係の所蔵物に使われてきた虫や菌のコントロ ール法です ( 図7)。たとえば、ヒ素や塩化水銀に浸 すというような方法が 100 年以上続きました。ヒ素 や塩化水銀は非常に毒性が強いため、虫やカビの対策 にはなりますが、毒性が強すぎて、人間も触ることが できなくなります。いくら虫菌がつかないからといっ ても、そのような毒性の強い処理法は大きな問題とな り、各種の代替法が検討されていきました。そして、 現在主に使わせているのが、低温処理で殺虫する方法 です。このようにみると、処理法は不変のものではな いことがわかります。社会情勢や処理の歴史、あるい は反省によってよい方法を適宜採用してきたことがわ かります。 さらに、1990 年代になるとさらに人体と環境、そ して材質への影響を考えるようになりました ( 図8)。 この背景として、1980 年代ごろから、燻蒸剤を使用 すると、目にはみえなくても分子レベルでさまざまな 変化を起こすことがわかってきたことがあげられま す。その上で、最終的に守るべきものは何であるかを 総合的に考えるようになってきました。文化財を後世 に伝えていくのは、私たちは子孫へ文化を継承してい くためにある。後世へ残していくときに,あとの方々 が生きていく環境や人体への安全性を抵当にとってま で,強力な薬剤を使っていっていいものか。そういっ た反省の結果、でてきたのが文化財分野のIPMとい う考え方です。 実をいいますと、私自身、当時最初は何を読んで も、このIPMというものが具体的にどういうものな のか、よく理解できませんでした。どうも腑におちな い・・。しかし、初めて理念的な部分で理解できた、 と思ったのが、愛知県美術館の長屋さんといろいろ議 論する中で、農業分野のIPMについての本(中筋、 大林、藤家「害虫防除」朝倉書店 1997)を読んでか らでした。
IPM(Integrated Pest Management)とは、日本 語では「総合的有害生物管理」と訳されています。こ れには、虫や菌などの被害が発生したとき、それを単 にガス燻蒸するだけで終わるのではなく、さまざまな 保存活動のなかに総合的に組み込むことによって管理 という意味があります。もともと農業分野で誕生した 生物被害コントロールの方法で、多量の化学薬品だけ に頼らないということが特徴です。深刻な残留毒性の 問題と、耐性害虫の出現の問題への反省から生まれま した。耐性害虫の発生が深刻化したことから、国連食 糧農業機関(FAO)が 1965 年にローマに害虫防除の 専門家を集めて議論し、今後あるべき方向に害虫防除 法の改善する新しい考え方として提示されました ( 図 9)。 この IPM の定義は、「あらゆる適切な防除手段を相 互に矛盾しない形で使用し、害虫密度を経済的被害許 容水準以下に減少させ、かつ低いレベルに維持するた めの害虫個体管理システム」ということです。基本概 念は、複数の防除法の合理的統合と、経済的被害許容 水準、害虫個体群のシステム管理、という 3 点です。 従来の防除法と大きく異なる点は、複数の防除法を 合理的に組み合わせて使用するという考え方です ( 図 10)。単独では効果があまりない場合でも、別の方法 と組み合せると防除が可能になることがあります。た とえば、大きな圃場に飛行機で殺虫剤を散布する方法 では、殺虫剤単独で 95%ほどの虫を殺さなければ効 果が得られません。そのため大量に殺虫剤を散布しま
世界の状況と現在の処置法の選択肢について す。その結果、その生態系にいる天敵や哺乳類なども 死んでしまい、さまざまな影響が生じることになりま す。 そこで、その生態系を構成している生き物を一緒に 殺すのではなく、まず害虫の天敵を生かすようにしま す。天敵による害虫の死亡率はたかだか半分ほどであ るため、それだけでは話になりませんが、天敵を生か しつつ、たとえば昆虫生長抑制剤を使うようにしま す。その昆虫生長抑制剤も、何にでも強く効くという ものではありません。害虫に対して 70%ほどの効果 しかないものを使用します。しかし、害虫の天敵によ る死亡率 50%と昆虫生長抑制剤による 70%を加味す ると、死亡率は 85%に達します。これでも少し足り ないとき、今度は、たとえば 70%効果の性フェロモ ンを使用するようにします。これらを組み合わせるこ とで、最終的に死亡率 95%が達成されます ( 図 11)。 このことを文化財保存にあてはめて考えてみます。 現在、文化財分野で Preventive conservation という 考え方の中で、予防段階で文化財の劣化を抑止すると いう考え方がさかんになっています。IPMの予防対 策は、この一環として位置付けられるといえます。た とえば、博物館では、これまで燻蒸剤単独で収蔵庫燻 蒸、全館燻蒸を年に 1 回行って、そこにいる虫菌を 100%殺すことを 20 年間ほど続けてきたわけです。 しかし、この方法はいろいろな意味で限界に達してい ます。そこで、虫菌が生長しない環境を整備すること が考えられるようになってきました。きちんと掃除を するといった基本的な体制で 70%ほどは達成できる ことが、世界的にも試算されています。もちろん、足 りない部分もあります。たとえば、新規に虫菌がつい ているものが搬入された場合、きちんとした殺虫やク リーニングが不可欠です。さらに、シロアリなどが 施設に発生した場合は、施設を薬剤処理します。その ようなこととあわせ、最終的にこれでほぼ 100%の 効果を得るようにします。すなわち、文化財分野で は、これまで年に 1 回、収蔵庫燻蒸をしていた部分 を、衛生管理や掃除によって虫やカビを誘引するもの をなくし、さらに侵入させないようにする。また、そ のほかの代替法を組み合わせてカバーするわけです ( 図 11)。 ・・とはいいましても、実は正直に言いますと、私 自身それまで、「本当にこのような清掃、衛生管理主 体で、大規模燻蒸の代替法としてなり立つのだろうか」 というところにずっと自信がもてなかった部分があり ました。ですが、外国や国内、いろいろな事例を実際 に学び、現場で実施例を見せてもらって、やっとこの スキームでいけるのではないか、と考えるに至った、 という経緯があります。 4.有害生物管理の 5 段階のコントロールを例えると・・ Preventive conservation の一環として、カナダの CCI(Canadian Conservation Institute, カナダ保存研 究所)で策定されているフレームワークをご紹介しま す(図 12)。皆様、ご存じの「5 段階のコントロール」 ですが、よく言われていますように、この順番には、 意味があります。番号の若いところから順にしっかり とりくまないと、あとの段階がどんどん大変になる、 ということです。 最初の段階は、虫やカビを誘うものを回避すること です(Avoid)。効果的な掃除とクリーニングが基本 となります。次に重要なのが、害虫やネズミなどの侵 入ルートを遮断することです(Block)。これらの対策 をとった上で、虫がいるかどうかを調べる第 3 の段 階、Detect を行います。早期発見が重要で、それが 的確であれば手が打てます。それには、記録が不可欠 です。そして、虫などが発見された場合に初めて対 処、Respond の段階となります。収蔵品に安全な方 法を選び、施設の欠点も見直すようにします。そして 5 段階目は、安全な収蔵空間に作品を戻したり、対策 を改善する、復帰、すなわち Recover/Treat です。 年に 1 回、大規模燻蒸で処理するということは、 いきなり 4 段階目の Respond 段階を行っていること に相当するわけです。ところが、大規模燻蒸は近い将 来に簡単にはできなくなるため、当時はとりあえず、 「かわりにモニタリングをやろう」ということになり、 Detect の段階を行う傾向がありました。ところが、1 段階から 2 段階までの回避、遮断を徹底してないと、 虫は発見されます。そうすると、「虫がいるから、や っぱり燻蒸しましょう」ということになって、燻蒸せ ざるを得ない、という議論に戻っていました。そうで はなく、番号の若い段階、Avoid、Block をきちんと やるのが IPM のもっとも重要な点だったのです。 ・・ということなのですが、これを私たち自身の「健 康管理」に例えて考えてみますと(図 13)、Avoid・ Block は、人間でいえば、基本的な健康管理(成人病 予防のための食生活、運動、感染症予防のための衛生 管理)などにあたるわけで、Detect が、健康診断や 人間ドックにあたります。感染症などの急性疾患や、
世界の状況と現在の処置法の選択肢について 大きな病気がみつかったときに、はじめて、治療、手 術、大手術などの Respond 過程が行われるかと思い ます。・・ところが、考えてみると、以前実施されて いた大規模燻蒸の場合は、例年の予算確保のために虫 がいてもいなくても、毎年燻蒸を実施する形になって いた・・。これは、例えてみれば、健康なのに大手術、 大量服薬をしていたということであったかもしれない (図 14)。もちろん、本当に重い病気ならば、このよ うな処置が必要な場合があります。しかし、そうでな いのに行われた場合は、必要のなかった副作用として、 残留や毒性の問題や、文書館などでたびたび問題にな ってきた青焼き文書などの悪臭発生の問題などが起き るということもあったかもしれません。 5.文化財に虫やカビが発生していたときの処置方法 文化財の処置において、もっとも気をつけなければ ならないことは、文化財の材質に悪影響を与えない方 法であることです(図 15)。私たちは、文化財を扱う 上で重い責任があります。過去には、文化財用途に通 常使用されない誤った薬剤が使用されたため、絵画に 重篤な変色事故がおきた事例もあり、文化財を扱う人 間は責任をもって安全な処置方法を選ばなければなり ません。 大規模な殺虫処理でなければ、現在、ノンケミカル な方法で低酸素濃度処理、二酸化炭素処理、低温処理、 高温処理といった殺虫法の選択肢があります。欧米で は、殺菌燻蒸を行うということが最近少なくなり、殺 虫だけを行うことが多いので、これらのいわゆる薬剤 を使わない方法が普及しています。 当時、日本でこのようなノンケミカルな方法が日本 の文化財害虫に効果があるかどうか、実験を始めた当 初は「こんな処理期間が何週間もかかる方法は話にな らない」という意見が多く、あまり相手にしてもらえ ない雰囲気もあったですが、少しずつデータを出して いって、現在、これらの方法はかなり現場での実績が 増えました(図 16)。 低酸素濃度処理は、酸素濃度を 0.1%未満にするこ とで、害虫を殺虫する方法です。もちろん卵やさなぎ まで殺虫することができます。良い点は、材質への影 響が少ないこと、人体にも安全性が高いことです。 小さい資料の場合は、文化財用の脱酸素剤(RP システムKタイプなど)を使うことができます ( 図 17)。平袋のほか,A4 版のサイズの書籍がはいるガ ゼットの袋も市販されています。やや大きい作品の場 合は、窒素ガス発生装置(湿度調整装置付き)と脱酸 素剤をくみあわせることもできます(図 18)。また、 燻蒸釜を窒素処理用に改造することもできます。これ は東京文化財研究所の装置ですが、温度条件と期間を 設定すれば自動で処理できるようにした例です(図 19)。 二酸化炭素処理法は、高濃度(約 60%容量)の二 酸化炭素の毒性により殺虫する方法です。これは,一 般に低酸素処理ほど厳密な気密性が要求されないの で、従来よく被覆燻蒸されてきた規模の被害の処理に 向いています。繰り返し使用できるジッパー式テント が市販されており、国立民族学博物館、九州国立博物 館などでも採用されています(図 20)。 低温処理法は世界では民具や書籍、標本などの殺虫 処理に広く普及しています ( 図 21)。カナダのナショ ナルアーカイブ ( 図 22) やエール大学の図書館、大英 図書館、タイの国立図書館などでも、この方法で殺虫 しているということです。- 30 ~- 20℃の低温で 殺虫する方法です。処理期間は、-30℃なら 5 日間、 -20℃なら 2 週間です。処理できる主な対象は、布製品、 毛皮、皮革、紙、書籍、木製品、動植物標本などです ( 図 21-23)。 高温処理法は、適用される資料は主に建造物や乾燥 植物標本、一部の民俗資料などになります。55-60℃ で処理をしますが、殺虫に要する期間は資料の中心部 まで温度が上昇してから数時間から一日なので、比較 的短時間で処理ができます(図 24)。 以上、薬剤を使用しない殺虫方法をご紹介しました が、殺虫燻蒸や、殺菌燻蒸が必要になる例もあります。 たとえば、建造物全体に顕著な虫害が発生しており、 部材を再使用するために徹底した殺虫処理が大規模に 必要な場合。また、水濡れなどによってカビが顕著に 発生した資料が大量にある場合などです(図 25)。 現在(公財)文化財虫菌害研究所の認定薬剤になっ ているガス燻蒸剤としては 3 種類があります。フッ 化スルフリルと酸化エチレン、酸化プロピレンです ( 図 26)。フッ化スルフリルは浸透性がよく使いやすい ものの、殺虫のみですので、殺虫だけでよい場合に使 用できます。 ただし、これらの燻蒸剤には、「特定化学物質」に 指定されているものが含まれ、人体への毒性が強い ため、取扱いの規則が法令で定められています(図 27)。とくに、特定化学物質第 2 類は、その多くに発 ガン性が報告されています。酸化エチレンは殺菌力が
世界の状況と現在の処置法の選択肢について 強く虫にもカビにも有効ですが、発ガン性があり材質 に吸着されやすく、労働安全基準が 1ppm となって います。酸化プロピレンは、酸化エチレンと同様に発 ガン性・材質への吸着性をもっており、労働安全基準 は 2ppm です ( 図 28)。 人体への毒性に注意を払うと同時に、文化財の材質 へどのような影響があるか、ということは非常に重要 です。これまで、目でみてとくに色などが顕著に変化 していなかったことからいくつかの燻蒸剤が選ばれて 使用されてきましたが、燻蒸剤は化学変化によって虫 やカビを殺しますので、見た目にはわからない場合で も、文化財の材質に何らかの影響が及んでいる場合も あります(図 29)。例えば、これは自然誌標本の例で す(図 30)が、千葉中央博物館の斉藤さんが以前か ら「燻蒸をしたあと、昆虫標本のDNA解析がしにく くなることがある」とおっしゃっていて、ご自身もそ の結果を論文で出されていました。このことについて、 私どものほうでも調べてみました。ここではキノコの 標本にいろいろな殺虫、殺菌処理を施したのち、DN Aを抽出し調べたところ、燻蒸剤のなかには一般的に 使用されている処理条件で 1 回燻蒸しただけで、標 本のDNAが顕著に壊れることがある(切断されて短 くなる場合がある)とわかりました(図 31)。この結 果をまとめると、図 32 のようになります。発ガン性 が知られている燻蒸剤は、標本のDNAにも影響する ことがわかりました。また、図 33 のような、筋肉標 本やにかわ、絹などのタンパク質材質への影響も調べ たところ、筋肉標本の場合、臭化メチルやフッ化スル フリルなどによって、タンパク質に化学修飾がおきる 可能性があることがわかりました(図 34)。さらに、 臭化メチルで燻蒸した場合、燻蒸後 5 年が経過した 資料でも、資料を分析すると臭素が検出されることが わかりました(図 35)。臭化メチルガスそのものは資 料からぬけているはずですが、臭素がどのような状態 で資料に残存しているのかは明らかではありません。 このように見てきますと、文化財の大規模燻蒸は、 (若干の副作用はあるものの)なんとかしなければ生 物劣化で失われてしまうような、大変な状態の文化財 を救うためのいざというときの「大手術」というよう な位置づけというように考えられるかと思います。こ のような「大手術」が必要な場合はあるのです。しかし、 現在、需要と供給の関係で、需要が減ると、いざとい うときにも実施することは難しくなってきており、こ れは非常に難しい問題です ( 図 36)。今後文化財関係 全般にかかわる問題と思います。 6.世界で取り組まれている文化財のIPMについて 最後に世界の状況についてですが、臭化メチルの使 用全廃に向けて、虫、カビの被害の多いアジア地域 ではどのようにすればよいのか検討する機会として、 1999 年に東京文化財研究所で ”IPM in Asia to meet Montreal Protocol” という国際シンポジウムを開催し ました(図 37)。このとき、ヨーロッパの文化財のI PMをリードされておられたイギリスのピニガー先生 や、アメリカの Getty Conservation Institute の前川さ んに来ていただき、また韓国、シンガポール、タイなど、 アジア地域のいろいろな国々でどのような対策をとっ ているかについても各国の関係者に話をしていただき ました。このときに、ピニガー先生よりお声がけをい ただき、翌年の 2000 年にロンドンで開催されている IPMコースに参加しました(図 38)。このとき受講 した内容がとても興味深かったので、それをもとに 2000 年 7 月より、東京文化財研究所の 2 週間の保存 担当学芸員研修の中で 2 日間の枠をいただき、日本 でも同様のIPMコースを研修として実施することに なりました。皆様が受講しておられる今年で、これ も 16 回目ということになります。また、2001 年に ロンドンの大英図書館でIPMに関する国際コンファ レンスがあり(図 39)、多くの国々からそれぞれの現 場の活動報告がありました。また、最近では 2011 年 に、大英博物館で、このコンファレンスの “Ten years later” というタイトルで再度会合があり ( 図 40)、み んぱくの園田さんや私より日本での取り組みや研究内 容を発表しました ( 図 41)。 そのときの主な話題は、まず「ゾーン管理によるI PM」、ということです。建物全館を同じように管理 するのではなく、収蔵品、展示品がある場所などのリ スクの度合いによって、ゾーンを決め、ゾーンごとに 適切な管理をしていくという考え方です。これは、最 初ロンドンの自然誌博物館ではじめられた試みです が、いまやイギリス中の施設に普及している感があり ます ( 図 42-44)。 また、館内という屋内環境だけではなく、もう少し 視野を広げた考え方としては、カナダのストラング先 生と木川のほうでまとめた「レベルコントロール(環 境のレベルに応じた段階的なコントロール)」という 考え方があります。ここでは、屋外から歴史的建造物、 通常の博物館施設に至るまでの 8 段階のレベルに分
世界の状況と現在の処置法の選択肢について けて、「一般的な状況」と「その状況でも可能な対策」 を整理したものです。その環境レベルでは、どうして も望ましい状態では管理できない、という場合にはも っと長期間にわたって対象の文化財が良好に保たれる ことが確実である環境へ「レベル変更」することも視 野に入れる、という考え方です(図 45-47)。 もうひとつ話題として出ていたのは「殺虫剤のみに 頼らない管理」ということですが、印象的だったのは、 大勢の子供たちがやってくるロンドンの自然誌博物館 では、小さい子供がケースのガラスに貼りついて標本 類を見学するので、ケース内の有機リン剤(DDV P)の使用をやめるという方向性を打ち出したことで す(図 48-50)。またロンドンのV&Aでは貴重な織物、 染色品のコレクションを多数展示していますが、ギャ ラリーで発生したコイガの被害が薬剤を使用しても、 収蔵品を低温処理で殺虫処理しても、なぜかなかなか 収まらず、その原因を追究したところ、床板の間に長 年たまった衣類のわたぼこりでコイガが発生していた ことがわかったということです。そこで床板を外して 徹底清掃し、床を貼りなおして隙間をコーキングした ところ、コイガの被害がおさまったという報告があり ました ( 図 51)。衛生管理の重要性が示されたひとつ の例かと思います。このほか、ヨーロッパでは、今コ イガの被害が顕著だということで、フェロモンを使用 した駆除方法についても報告がありました(図 52)。 IPMの普及、教育についても、イギリス国内では イングリッシュヘリテージやナショナルトラストなど で、現地スタッフやボランティアを対象に、毎年害虫 同定を含むIPMの研修コースを開催しており、これ まで千人以上が受講して、管理に役立てているという ことです(図 53)。またウェブサイトを通じて、情報 交換、教育普及も行われており、北米の有志機関が運 営している “Museum Pest Net” というサイトがありま す(図 54)。 2013 年には、ウィーンにてIPMコンファレンス が開催されました。このときは、2 日間のIPM研修 コースのあと、3 日間のコンファレンスがありました が、いずれも申込み多数で全員参加することができな いほど盛況だったということです(図 55-56)。ヨー ロッパでは全般に「低温処理」が一般的な殺虫法とし て採用されていますが、最近は建造物などで「温熱 処理」による殺虫処理の例も増えてきています(図 57)。全般に、イギリス、カナダ、アメリカなどで導 入されてきたIPMが今、オーストリア、ドイツ、ス イスなどのドイツ語圏で採用されてきており、今後、 フランス、イタリアなどのラテン語圏でもIPMが導 入され始めている状況のようでした ( 図 58)。 7.まとめにかえて 今回のフォーラムでは、臭化メチルの全廃から始ま って、この 10 年の経緯や美術館、博物館、文書館、 図書館などでの取り組みがどのようになされてきた か、という話題でまずいくつかお話いただきますが、 さらに博物館施設のような空調設備のない寺社収蔵庫 や歴史的建造物での取り組みや、古墳などの屋外環境 における衛生管理によるIPMの取組みなどについて も話題提供をいただきます(図 59)。 昨今のいろいろなニュースでもありましたが、日本 はサッカーワールドカップ会場でもスタジアムのゴミ を掃除して帰ることで、また国内では、公共施設や道 などの清潔さなどでも世界でも有名です。きれい好き、 緻密な国民性で、IPMにとても向いている・・とも いえるのではないでしょうか・・? このフォーラムでいろいろな情報交換をしていって いただけることを期待しております。
世界の状況と現在の処置法の選択肢について オゾン層の保護のため、臭化メチルの使用を 2005年の初めまでに全廃 ●当時、国内の臭化メチル使用量のうち、 文化財分野での使用は 約1% →エッセンシャルユース (あるいはCMBU)に申請? →結局 CMBUに残らず (厳しい選考基準、残っても数年後には 全廃しなければならない) 図1 当時の農業分野、建造物、そのほかの 臭化メチル代替法に関するレポート 図3 そもそも(1): わが国の 虫菌害防除法の歴史 古来 虫干し(曝涼) 1960年代- ガス燻蒸 (エキボン--臭化メチル,酸化エチレン) 臭化メチル 2004年末に全廃 ・予防対策の強化 ・代替策の検討 ・IPM ?! 図5 当時、文化財用途について CMBUが検討されたが、 結局 CMBUは申請せず (厳しい基準、残っても 数年後には全廃しなければならない) 1997年9月 モントリオール議定書 締約国会議 (カナダ・モントリオール) 写真提供:三浦定俊氏 図2 ● 目の前の問題として「エキボン」のかわり として、文化財に虫やカビが出ていたとき どうするか?? ● IPMとは何か?? (文化財分野の代替法 のひとつとして 挙げられていた) 図4 そもそも(2) 1993~1995年ごろの状況 ● アメリカ、イギリス、カナダなどでは、 文化財の臭化メチル、EO燻蒸を止めていた ● フランスはEO(酸化エチレン)をまだ使用 ● 東南アジアなどでは、ほとんど使用していない または、事故がおきてやめた ● 韓国 – 日本から「エキボン」を輸入して使用 (使用量は日本の1/10ほど) ● 日本 世界一の文化財燻蒸大国?! 図6
世界の状況と現在の処置法の選択肢について
1800 1850 1900 1950 2000
National Museum of Natural History, Smithsonian Institution で使用されてきた虫や菌のコントロール法 (Goldberg 1996より引用,抜粋) しょうのう ヒ素 塩化水銀 高温処理 ナフタレン パラジクロロベンゼン 臭化メチル 酸化エチレン フッ化スルフリル 低温処理 図7
IPM
(Integrated Pest Management) 総合的有害生物管理 とは? ・農業の分野で誕生した新しい生物被害コン トロールの方法 ・多量の化学薬品だけに頼らない ・深刻な残留毒性の問題,耐性害虫の出現 の問題への反省から生まれた 図9 図111990年代からの大きな変化
環境への影響 人体への影響 → 材質への影響 「最終的に守るものは 何か?」 ↓ IPM という考え方 図8IPMの考え方
定義 「あらゆる適切な防除手段を相互に矛盾しない 形で使用し,害虫密度を経済的被害許容水 準以下に減少させ,かつ低いレベルに維持 するための害虫個体群管理システム」 (FAO 1965) (重要) 複数の防除法の合理的統合 図10 有害生物管理プログラムにおける 5段階のコントロール (CCI 1994) *順番に意味がある [1] Avoid (虫やカビを誘うものを回避する) -効果的な清掃とクリーニングが基本 [2] Block (虫などの遮断) -害虫,ネズミなどの侵入ルートの遮断 [3] Detect (虫などの発見) -早期発見が重要,記録は不可欠 [4] Respond (対処) -収蔵品に安全な方法を,施設の欠点もみなおす [5] Recover/ Treat (復帰) -安全な収蔵空間に作品をもどす,対策の改善 図12世界の状況と現在の処置法の選択肢について 有害生物管理プログラムにおける 5段階のコントロール (CCI 1994) *順番に意味がある [1] Avoid [2] Block [3] Detect [4] Respond [5] Recover/ Treat 基本的な健康管理 慢性疾患(成人病など)予防 衛生・食生活・適度な運動 健康診断・人間ドック 急性疾患(感染症)治療 手術 大手術・・・ 図13 文化財に使用する方法は、文化財の材質に 悪影響を与えない方法であること (重い責任) ・誤った薬剤の使用による変色事故の例もある 図15 <小規模の処置> -- 脱酸素剤 図17
Respond
対処
当時、「エキボン」のかわりの方法が喫緊の課題!! ● 大規模燻蒸 これにかわる方法があるのか?? 一方で: ・虫がいなくても、毎年燻蒸 (予算確保) ・残留・毒性の問題 (目が痛い、頭痛、しっしん) ・資料の悪臭 (青焼き文書など) 健康なのに 大手術・大量服薬していた場合も?! 図14ノンケミカルな方法の検討
• 低酸素濃度処理法 (殺虫) • 二酸化炭素処理法 (殺虫) • 低温処理法 (殺虫) → 当時は半信半疑、 第一、処理期間が 「長すぎる!」との声 図16 屏風、漆工芸品、軸物などの 低酸素濃度殺虫処理 (外国からは指定されることがあります) 図18世界の状況と現在の処置法の選択肢について 九州国立博物館などでも採用されている 図19
低温処理
-30℃ で約5日間 -20℃ で約2週間 ・適用される対象 布製品,毛皮,皮革,紙,書籍, 木製品,動植物標本 など ・適用されない対象 油彩画,アクリル画,写真, 美術工芸品 など 図21 カミキリムシに食害された資料(竹製品)の 低温処理 木川、大下 2005 図23 二酸化炭素処理---くり返し使用できるジッパー式テント 写真提供:日本液炭株式会社 国立民族学博物館、 九州国立博物館などでも 使用されている 図20 カナダ国立文書館 一時保管庫 (主な殺虫法はFreezing) 図22高温処理
55 - 60℃
• 殺虫は短時間ですむ(数時間〜1日) • 適用される材質 乾燥植物標本,菌類標本(キノコなど) ,建造物, 一部の民俗資料(竹製・木質民具,繊維製品 など) 図24世界の状況と現在の処置法の選択肢について
殺虫燻蒸、あるいは殺菌燻蒸
が必要なとき
建造物全体に拡がった虫害 水濡れによる被災文化財などでカビが顕著に 発生している例 など 図25特定化学物質
• 化学物質のうち, 特にガン,神経障害,皮膚炎,その他の 健康障害を発生させるおそれがある化学 物質については,それらを製造し,または 取り扱う事業場において,健康障害の予 防対策のための規則が,法令で定められ ている。 図27材質への影響?
• 目にみえる変化 色の変化, 物理的な損傷 など • 目にみえない変化 化学変化 紙のセルロース,絹,膠などのタンパク質, DNA など への影響は 図29 (公財)文化財虫菌害研究所によって 文化財への使用が認定されている薬剤 2015.現在 ・フッ化スルフリル (商品名 ヴァイケーン) 殺虫 ○ 殺菌 × 浸透性がよい,15℃以上で! ・酸化エチレン (商品名 エキヒュームS) 殺虫 ○ 殺菌 ○ 発ガン性,吸着されやすい ・酸化プロピレン (商品名 アルプ) 殺虫 △ 殺菌 ○ 発ガン性,吸着されやすい,爆発限界に注意 図26特定化学物質 第2類
• 臭化メチル 管理濃度 15ppm ACGIH TLV 1ppm • 酸化エチレン (H15〜) 管理濃度 1ppm ACGIH TLV 1ppm • 酸化プロピレン (H23〜) 管理濃度 2ppm ACGIH TLV 2ppm 「ガス,蒸気または粉塵の発生源を密閉する装置,また は局所排気装置を設け,作業環境気中濃度を一定基 準以下に抑制し,慢性的障害を予防すべき物質」 図28 自然誌標本のDNAへの影響を調べる 試料:凍結乾燥したキノコの標本と筋肉の標本 図30世界の状況と現在の処置法の選択肢について キノコ標本から抽出したDNA (L. edodes) Kigawa et al. 2003 燻蒸剤のなかには、通常の処理で標本のDNAが こわれるものがある 燻蒸剤 ノンケミカルな処理 図31
タンパク質材質への影響
筋肉標本 --- もっとも影響大 にかわ (ビーズ、塗布膜) 絹 (生絹、練絹) 図33燻蒸して5年が経過しても、
臭素が検出される
臭化メチルで燻蒸された 筋肉標本、にかわ、絹布から 燻蒸して5年後でも臭素が検出される Kigawa et al. 2011 XRF 図35標本の
DNAへの影響
• DNAの分解 臭化メチル 酸化エチレン 酸化プロピレン ヨウ化メチル • 変化なし フッ化スルフリル 二酸化炭素 低温処理-30oC 高温処理 60oC Kigawa et al. 2003 図 32 臭化メチル、ヨウ化メチル、フッ化スルフリルに よるタンパク質(筋肉標本)の化学修飾 Kigawa et al. 2011Amino acid analysis
FTIR 図34
文化財の大空間ガス燻蒸
(
大手術・高度医療
)
● いざというときに必要 --- しかし、需要と供給の関係で 需要が減ると、なりゆかなくなる (文化財関係、全般にかかわる問題) 図36世界の状況と現在の処置法の選択肢について
1999
東京文化財研究所 国際シンポジウム “IPM in Asia to meet Montreal Protocol” 臭化メチル全廃・ どうすればよいか 図372001
A Pest Odyssey
イギリス、スウェーデン 、アメリカ、カナダ、オー ストラリア、シンガポー ル、日本・・ British Library 図39 図412000
IPM couse,
NHM London
→
2000年7月から 「保存担当学芸員研 修」 で同様の IPMコースを実施 図38 2011 A Pest Odyssey 10 Years Later At British Museum 図40(1) IPM
Zones による管理
害虫、ネズミなどのリスクによって ゾーンを決め、ゾーンごとに適切な管理をしていく --- 全館すべてのエリアを 同じように管理するわけではない NHM Londonから 現在はイギリス中の施設に普及! 図42世界の状況と現在の処置法の選択肢について
イギリスにおける
IPMの実例
NHM, London 図43Level Control
(Strang and Kigawa 2006)
0. Outside (屋外)
1. Have a roof (屋根がある)
2. Have walls (壁もある)
3. Basic habitation (住める環境、歴史的建造物) 4. Commercial adapted facility (一般的) 5. Purpose built facility
6. Preservation designed facility 7. Ultimate
図45
図47
NHM zoned by pest risk
5 zones ABCD(E) for rodent and insect pests • A red, high priority collections
• B orange, galleries • C yellow, paleo
• D green, connecting areas, no collections • E blue, special collections.
A. Doyle, NHM, London et al.
図44
環境のレベルごとに
• 状況と 可能な方策を整理 • そのレベルで やれることがある 何もやらなかったときと 比べ、どのくらい よくなるか examples site building fittings procedures 図46(2) 殺虫剤のみに頼らない管理
DDVP使用(ひきだし、ケース内)をやめる方向。 燻蒸剤もほとんど使用されない。 (NHM London) 衛生管理の有効性について議論 (V&A London) 図48世界の状況と現在の処置法の選択肢について
NMH, London
• 最初に IPM Zones のシステムを取り入れた • IPM ボランティア、IPM コーディネータがいる • 非常に多くの子供づれが来る 図49ギャラリーの床板の間にたまったゴミ
がコイガの発生源!
作品からコイガを駆除したり、薬剤をまいたり 掃除したりしてもダメ → 床板の下にたまっている綿ぼこりに発生して いた→ 徹底清掃 Blyth & Smith, 2011 図51
(3)
IPMの普及・教育
博物館や歴史的建造物等において、 現地スタッフ、ボランティアの教育 イギリス国内では、年間多くの人たちにト レーニングコースを設けている。 多くの歴史的建造物などでもIPMを進めてい る これまで千人以上 図53 観客がケースのすぐ近くに 観客、スタッフの健康への影響を考え、ケース内の DDVP 蒸散剤の使用をやめている 図50Exosex
TMコイガをフェロモンで駆除
メスのフェロモンにオスが誘引され、 フェロモンがしみこんだコナが オスの体にまぶされる → ついたオスをオスがおいかける ついたオスはメスをみつけられない 図52ウェブを通じた情報交換、
教育普及
Museum Pest Net
(北米の有志機関が 運営) ウェブ上で 害虫同定エイド、 情報交換のフォーラム 処理の方法についての 関連資料など 図54
世界の状況と現在の処置法の選択肢について
2013 ウィーンにて
IPMコンファレンス開催
• June 5-7. 2013 in Vienna, Kunsthistorische Museum 図55 • ヨーロッパでは、 「低温処理」が一般的な殺虫法 建造物などでは温熱処理も増えてきている Thermo Lignum 社 による、建物の 温熱処理による 殺虫処理の例 図57 この10年・・ 美術館、博物館、 文書館、図書館・・・ ↓ 空調のない 寺社建造物、 歴史的 建造物など 屋外に近い あるいは古墳などの 屋外環境・・・ 図59 2日間のIPM研修コース そのあと3日間の学会 ---申込者多数、全員入れなかった 図56 • イギリス、カナダ、アメリカ ---システマティックなIPMの導入 2011 • オーストリア、ドイツ、スイスなど、ドイツ語圏で 独自の方向性をまじえたIPMの導入例 2013 • フランス、イタリアなどが徐々に開始している 状況 --- 次回はフランス・パリで国際研究集 会 2016? 図58
文化財IPMコーディネータについて 1.はじめに 江戸城にあった紅葉山文庫では、江戸時代に図書 保存のための曝書を旧暦 5 月末から 6 月に開始し、2 ヶ月ほどかけて行っていたという1)。曝書の目的は、 虫やカビによる被害を防止するための湿気抜きと目視 による点検であった。しかし曝書だけでは資料の深部 に入り込んだ害虫を完全に処置できないので、殺虫力 すなわち毒性の強いガスを用いた殺虫燻蒸法が 1950 年代に実用化され、1970 年代から、殺虫用の臭化メ チルと殺菌用の酸化エチレンを混合したガスが、虫も カビも一度に殺せる便利な文化財用燻蒸ガスとして使 用されるようになった。 ところが臭化メチルがオゾン層破壊物質として指定 され、我が国を含む先進国では 2005 年からその生産 と使用が全廃されることとなった。そこで臭化メチル の全廃を契機に、被害発生後の燻蒸による殺虫・殺菌 中心の生物被害対策から、被害の予防を中心とした IPM(Integrated Pest Management、総合的有害生物 管理)へと転換することになった。 2.IPM コーディネータ資格の目的 IPM は一つの生物被害防除手法を指すのではなく、 様々な手法を組み合わせて許容レベル以下まで害虫を 少なくして、その状態を維持管理する方法をさし、農 業分野で生まれた。博物館などにおける IPM(以下、 文化財 IPM と呼ぶ)は次のように考えられている。 文化財にとっては虫だけでなくカビによる被害も大き な問題なので、文化財 IPM とは「博物館等の建物に おいて考えられる、有効で適切な技術を合理的に組み 合わせて使用し、展示室、収蔵庫、書庫など資料のあ る場所では、害虫がいないことと、カビによる目に見 える被害がないことを目指して、建物内の有害生物を 制御し、その水準を維持すること」である2)。 IPM の作業は、回避、遮断、発見、対処、復帰と 呼ばれる 5 段階に分けられる3)。作業には、学芸員な ど専門職員の他に施設設備の職員、空調や清掃、生物 被害の防除を委託している会社、ボランティアなど多 くの人が関与するが、回避から復帰までのどの段階に 問題があっても生物被害防除の効果は上がらない。そ のため各段階の作業の質をどのようにして保証するか が大きな課題となる。 質を保証する一つの方法として、作業に必要な資格 を指定する方法がある。例えば文化財の殺虫・殺菌燻 蒸処置については、文化財虫菌害研究所の「文化財虫 菌害防除作業主任者」という資格の所持者がいること を入札条件としている館が多い。しかし IPM の他の 作業、例えば清掃についてはそのような資格がない。 またトラップを用いた有害生物生息調査は、建築物 衛生分野などで広く行われている。しかし建築物衛生 分野で対象としている衛生害虫や不快害虫と、文化財 害虫とは種類が違い、博物館・美術館はものの取り扱 いや防犯面など通常の建物と留意すべき点が違う。そ のためこれらの違いを了解して業務を行う会社でなけ ればならない。 このような状況をふまえて、文化財 IPM を理解し、 それぞれの立場で作業を監督し、専門家と相談しなが ら文化財 IPM を円滑に推進できる人であることを認 定するための資格として、文化財虫菌害研究所は平成 23 年度に「文化財 IPM コーディネータ」資格を創設 した。 3.これまでの資格取得者 これまで 4 年間の資格取得者(274 名)を見ると 半数が学芸員など館職員である。IPM は資料の虫や カビによる被害を防ぐというのが第一の目的である が、IPM を進めるには虫やカビだけでなく、空調や 出入り口の開閉、扉や窓の隙間、ゴミやホコリなどに も注意しなければならないので、資格取得のための講 習会では虫やカビに関することだけでなく、温度・湿 度の測定や空調に関しても学ぶ。IPMを知っていても、 学芸員が学ぶことは多い。 資格取得者の館職員は学芸員だけではない。どの館 も防災体制を整備して危機に備えているのと同様に、 IPM も組織として、もし虫やカビの被害が起きたら
文化財IPMコーディネータについて
三浦 定俊
公益財団法人文化財虫菌害研究所 理事長
文化財IPMコーディネータについて どのように対応するか、被害を起こさないためには日 頃からどんな点に気をつけなければならないかなど、 資料を保存するための組織の危機管理である。そのた め IPM は館の管理体制に組み込まれてこそ円滑に進 めることができるし、館の管理者が IPM をよく理解 していることが大切である。実際にこれまでの文化財 IPM コーディネータ資格取得者の中には館の総務担 当者もいる。 資格取得者の残りの半数は館の業務(輸送を含む) を受託する企業の職員である。資格取得のための講習 会では、博物館などの空調の特徴や施設管理の要点を 学び、資料のある展示室等での清掃(IPM メンテナ ンス)方法を見学し、博物館等において作業をする時 の留意点を理解する。文化財 IPM 業務を受託する企 業として、このような点をしっかり理解していること は必要と考えられる。 4.資格の取得方法 資格取得には、はじめに 2 日間の講義を受ける。 内容は大別して、①文化財 IPM の基礎、②文化財に 加害する生物、③保存環境の把握と維持、④ IPM か ら見た施設管理、⑤防除処理の基礎、⑥文化財 IPM の体制、⑦文化財 IPM メンテナンスの実務の 7 項目 に分けられる。(表 1) 講習会後の試験に合格し、試験の前後 1 年以内に 開催される「文化財の虫菌害・保存対策研修会」を事 前または事後に受講して申請すれば、資格を認定され る。資格は 5 年ごとに登録を更新する。登録更新は, 事前(更新時の前 2 年以内)に「文化財の虫菌害・ 保存対策研修会」を受講することを要件としている。 5.まとめ 文化財 IPM コーディネータ資格は平成 23 年に創設 され、講習会と試験は昨年までに 4 回、九州国立博 物館で開催された。第 5 回は今年(平成 27 年)12 月 16 ~ 18 日に国立民族学博物館で開催される予定 である。詳細は文化財虫菌害研究所のホームページ (http://www.bunchuken.or.jp/)をご覧いただきたい。 参考文献 1) 本田光子 . 「曝涼・曝書と文化財 IPM」. 『文化財の虫菌害』. 2011. 62. p.9-12 2) 三浦定俊 . 「文化財保存における IPM への取り組み」. 『防菌防黴』. 2012. 40(6). p.343-350 3) 木川りか、長屋菜津子、園田直子、日高真吾、Tom Strang. 「博物館・ 美術館・図書館等における IPM」. 『文化財保存修復学会誌』. 2003. 47. p.76-102 表1 文化財 IPM コーディネータ講習会と試験のプログラム 第1 日目 文化財のIPM概論 【60 分】 文化財の生物被害と加害生物 【60 分】 温湿度環境の測定と解析 【60 分】 カビの調査と環境の解析 【60 分】 虫の調査と環境の解析 【60 分】 見学(展示室におけるIPM作業の実際) 【90 分】 第2 日目 IPMから見た博物館等の施設管理 【60 分】 防除処理に関する基礎知識 【60 分】 IPMの体制づくり 【60 分】 試験 【90 分】 試験項目 (ア)文化財に係る IPM に関する基礎的な知識と実施体制 (イ)文化財虫菌害に関する知識 (ウ) 文化財の保存環境の把握と維持 (エ) IPM から見た博物館等の施設管理 (オ) 文化財の生物被害と簡便な防除処理